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西蓮寺について

宗 派 浄土真宗本願寺派
山 号 放光山 (ほうこうざん)
名 称 西蓮寺 (さいれんじ)
所 在福岡県飯塚市庄司68
住 職 渡邊 慈海(わたなべ じかい)

「浄土真宗 本願寺派」とは、京都にある西本願寺を本山とする宗派で、通称「お西」と言われている宗派になります。
「西本願寺」も通称で、正式名称は「龍谷山 本願寺」(りゅうこくざん・ほんがんじ)というお寺です。
ちなみに、京都には東本願寺もありますが、こちらは「真宗大谷派」という宗派の本山(通称「お東」)で、「東本願寺」も通称であり、正式名称は「真宗本廟」(しんしゅうほんびょう)と言います。

西蓮寺の歴史

西蓮寺はかつて、薬師如来を本尊とする天台宗寺院・薬師寺(室町時代創建)であったと伝わっています。戦国時代、薬師寺は騒乱に巻き込まれて破却(1580年代後半?)され、本尊の薬師如来は小さな祠に祀られたまま忘れられるほどになっていました。その荒廃を嘆いたある僧侶が、江戸時代初期頃(1630頃)に簡易な草庵を建て、本尊薬師如来を再度安置し、給仕(お世話)を続けていました。
ある夜、薬師如来の眉間の白毫(びゃくごう)から光が放たれ、その光が北東の方角を指し示したといいます。僧は「これはご本尊・薬師如来のお導きに違いない」と福岡の地から北東の方角─京都─へ遊学の旅に出ました。京都で各宗派の門を叩いて学びを深めましたが、最後に訪れた西本願寺の春彼岸法要に参拝し、本願念仏の教えに感動して浄土真宗へ帰依したといわれています。そのまま京都に数年逗留して浄土真宗を学んだ後、地元飯塚に戻る事になった際、寺院を建てる許可を賜りました。その時「私は薬師如来の眉間から『放』たれた『光』によって、浄土真宗に出遇えた」として「放光山」の山号を名付けたと言われています。
江戸時代に西日本一帯を襲った飢饉により、一度寺族が断絶して西蓮寺は無住の状態が続きました。これを見かねた現・桂川町長明寺に所属する僧侶(衆徒)・渡辺氏が入寺して西蓮寺は再興します。2~3代かけて無住期間に失われていた堂類を整備し、数度、庄司村内を移転しながら法灯を守り続けています。明治期の本願寺派碩学と謳われた利井鮮妙師の元で学んだ(現・行信教校)西蓮寺14世住職(了円)が明治後期~昭和初期に活躍し、西蓮寺は大きくなり、今日の礎を築くに至りました。

住職について

名前:渡邊 慈海(ワタナベ ジカイ)
西蓮寺17代住職 (本願寺派布教使)
一般学歴:関西大学総合情報学部卒
宗門教育:中央仏教学院本科/行信教校/住職課程
教区実践運動委員(2008頃~)
中央委員(2020~)
福岡教区子ども若者ご縁づくりマネージャー